ことば

言葉

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聴講生として通っている講座で、次の講座の日まで毎日、四行詩を書くよう課題が出された。
誰に見せるでもない詩を書くように、と。
課題であるけれど、提出は求められていない。
(言わずともわかる人にはわかる。若松さんの講座である)

誰かに見せることを意識すると、体裁を整える。
見栄えはよくなるが、本当に書きたいことなのか。
それが私のこころからのことばなのかというと、そうではなくなるのだろう。

 

小学二年生の時に母からノートを渡された。
日々あったことをこのノートに書くように言われた。
時々、私は嘘を書いた。
願望を、さもそういうことがあったかのように書いた。
日記を書かせようと思った理由は、学校でのことを私が話さないので
何を考えているのかわからなかったからと後々母は言った。

小学三年生の時、海外からのお土産で隣の人からノートをもらった。
かなり感じたことを書いていたように記憶している。
誰かに見せることを意識せずに書いた。
けれども、そのノートに書いたことはまわりのおとなに見られており
書いたことに対して褒められるということを知った。

 

こどもの頃は、物語を描いたり、絵を描いたり、そんなことを好きだと思ってきた。
中学生の時には、それが詩を書くことに変わった。
授業中、生徒手帳に窓の外をぼんやり見ながらいろいろ書きつけた。
詩人になりたいと思っていた。
あの生徒手帳はどこにいったんだろう。

 

高校生の時は、それは友人との交換日記に変わった。
何人かの人と、ノートを交換して、その日あったこと
主には好きな男の子のことや部活への不満などを書いていたように記憶している。

高校三年生の時に古典の先生を好きになった。
というか、もともと文学が好きだったところに古典の先生の教え方がよくて
古典の世界に魅入ったのだった。
それを「先生が好き」と勘違いしていたところもあったように今は思う。
先生の影響で文学部に行こうと思ったりもした。
でも、環境のことを学びたくて農学部を目指した。
大学生になってからは、書くことをぱたりとしなくなった。

 

1995年にインターネットと出会い、自分のページを作った。
書くことをながらく忘れていたけれど、書き出すと止まらなかった。
そして自分でびっくりした。
私はこんなことを考えていたのか、と。
昔のハードディスクに一部が残っている。
あれらは、私にとって、すべて詩だった。

その頃、好きになった人がいた。
私の書くことをとても褒めてくれて、
それがうれしくて、書きたいことがスルスルと出てきた。

私は、その人にその日あったことを聞いて欲しくて書いていたように思う。
見せることを意識すると体裁が整いすぎるということも確かにあるが
その人がいるから、言葉が浮かび上がった。
書こうと思って書くのではなく、書くことは衝動だった。

 

 

 

誰に見せるのでもなく、自分が知っているだけでいい。
そんなことを書ければいいのかもしれない。

けれども、果たしてそうなんだろうか。
自分自身が知っているだけでいいことも、
書く時には誰か(自分自身を含む)を思い浮かべて書いたりしていないだろうか。
書くことは、誰に読まれるでもない手紙みたいだと思う。

私が思っていることはたくさんあって、あたまのなかで混沌としている。
その混沌としたあたまのなかは、空と同じ。
すぐに言葉として取り出さなくては、思いとはながれゆく雲。

誰かの存在で、言葉があらわになる。
雲も、つめたい空気とあたたかい空気が出会ってうまれるように。

誰かに聞いて欲しくて、言葉がみえる。
誰かの思いを聞きたくて、言葉がある。
私には、自分と他者の境目がわからなくなることがよくある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

落ち葉を踏みしめる
かさかさと乾いている
足裏がとらえたのは水の音
なくなってその存在を感じている