ことば

快と不快の観点 からだの声と脳の欲求

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前回の記事で、熊谷さんの記事のリンクをはった。

熊谷さんのおっしゃっていた「自立」について書かれた記事を探し
この記事のリンクをはることにしたのだけれど
あらためて読んでみるととてもおもしろく、じつにタイムリーな記事だった。

 

人生の指針とは何かと問うとき、多様でありえる自立が始まる
熊谷 晋一郎さん(小児科医)
http://www.mammo.tv/interview/archives/no332.html

 

 

体は快適なものを求めているのだし、危ないものはなるべく退けたほうがいい。でも、本当にそうなのかなと思います。

完璧な介助はまるで薬物の依存症みたいなもので、それしかないと他に頼ることができなくなるため、手放せなくなります。それに次にそんなに上手ではない介助者が来ると、前の人とつい比べてしまい「不快だ」と思ってしまうのですが、その判断は嗜癖ゆえなのか。それとも体が求めているのかわかりにくい。

過去のフラッシュバックのように、「あのときのあの感覚」を求めているだけかもしれません。だから快と不快だけの観点では、体の声を聞いたことにはならないのだと思います。

依存先の分散にあたっては、「快と不快」がいい羅針盤ではないとしたら、何を指針に自立や生を考えればいいか。そう思うときに初めてオルタナティブな軸が出てくるのだと思います。

 

食事の制限、特に糖を断つようにしてから感じたことは、脳の欲求。
それほど好きではなかったはずの、砂糖がけドーナッツが食べたくてしようがなかった。

猛烈な欲求だった。
スーパーやコンビニで、何度も手を伸ばしそうになっては止めた。
なんだこれは。まさしく中毒じゃないか。
からだが求めているというよりは、脳だけが食べたがっているという感じだった。

自分が食べたいと感じるものを食べればいいといっても、
脳の要求とからだの要求の違いに敏感であるかどうか。

これは食のことだけではなく、日々の生活全般に言えることかもしれない。
熊谷さんの書かれたものを読んであらためてハッとした。

人とのつきあいの中にも、
脳で快適でいられることを選択してきたのではないだろうか。

 
脳が快適さを求めすぎると、いやだと感じることも増えてしまう。
いやなもの、自分を苦しめるものからは逃げればいい。
けれども、その指標は私にとって正しいのだろうか。

自分の感覚に繊細になることは大切なことだ。
けれども、あまりにも脳で選別しすぎてきたのではないだろうか、私は。
大きく聞こえていたあの声は、からだからのものではなかったんじゃないだろうか。
(耳を、さらにすませてきこう)
 
 
理解者が支えてくれるのは当たり前で、それに依存すると危ないのです。全然理解しない人に体当たりしたら、どの程度支えてくれるか知りたい。それが生存の前提を知る上で重要です。
 
 
そういうことを言いたかったのかもしれない。
(けれども、「もっとおおらかな気持ちで」は助言の言葉としては不適切であるようだ。
もうすこし、繊細な言葉が必要だ。ここはもう少し考えよう。)
 
(そして、このあたりが「不寛容な社会」を形成している一因でもあるような気がする)