ことば

コトバ

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読書と対話の会と題して、池田晶子さんの「14歳からの哲学」を読んで話す会を月に一度続けている。

今月は25日に開催、「言葉」の章を読んだ。

ここは

「しょせんは言葉、現実じゃないよ、という言い方をする大人を、
決して信用しちゃいけません。
そういう人は、言葉よりも先に現実というものがある、
そして、現実とは目に見える物のことである、とただ思い込んで、
言葉こそが現実を作っているという本当のことを知らない人です」

という、痛烈なパンチを受ける章だ。

 

こうして書かれた文字や話したり聞いたりする言葉だけを言葉というのではない。
思ったり、考えたりしていることそのこと、それもコトバだ。
感じることはいうにあらず。
音も、絵画も、コトバだ。
コトバは、人と人の間をつなぐもの。
たとえ声に出して話せなくても、耳が聞こえなくても、
コトバによってやりとりしている。
交感している。
私はそう考えている。
ここでいうコトバは、ここにも書いた通り、≠言葉である。
「言葉」とは、意味の始原、意味の根源的な姿を指しており、
そうした「言葉」を「コトバ」と記すことで、言語的な言葉と区別したい。


池田さんが「言葉」と書く時、それは「コトバ」のことだ。

 

 

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生」という本は
マイク・メイさんという、3歳の時に失った視覚を手術によって取り戻した男性のノンフィクションだ。
マイク・メイさんは手術によって視覚は取り戻せたが、見えないままだった。
男性女性の区別はつかず、物事を立体的に捉えることもできなかった。

手術が終わって、包帯がとれた時の記述がすごい。

ところがグッドマン(医師)は消毒や包帯のことなどひとことも口にせず、妙なことをし、妙なことを言った。親指と人差し指でまぶたを開かせながら尋ねた。「少し、見えますか?」

 ズドーン! ドッカーーーーーン!

白い光の洪水がメイの目に、肌に、血液に、神経に、細胞に、どっと流れ込んできた。光はいたるところにある。光は自分のまわりにも、自分の内側にもある。髪の毛の中にもある。吐く息の上にもある。隣の部屋にもある。隣のビルにもある。隣の町にもある。医師の声にも、医師の手にもくっついている。嘘みたいに明るい。そうだ、この強烈な感覚は明るさにちがいない。とてつもなく明るい。でも痛みは感じないし、不愉快ですらない。明るさがこっちに押し寄せてくる。それは動かない。いや、たえず動いている。いや、やっぱりじっと動かない。それはどこからともなくあらわれる。どこからともなくやって来るって、どういうことだ? すべて白ずくめだ。グッドマンの尋ねる声がまた聞こえる。「なにか見えますか?」。メイの表情が満面の笑顔に変わった。自分の内側のなにかに衝き動かされて笑い声を上げ、言葉を発した。「なんてこった! 確かに見えます!」。ジェニファーは心臓がドキンドキンと脈打ち、喉が締めつけられた。「ああ、神様」

光と出会って1秒後、明るさが質感をもちはじめた。このものに手で触れられないのか? その1秒後、明るさは四方八方から押し寄せるのをやめ、ある一つの方向からやって来るように思えてきた。あっちだ。頭上のブーンという音のするほうからやって来る。ほんの一瞬だけ、光から意識が離れて、診察室のブーンという音の源は蛍光灯だという知識を思い出した。そう思って光に意識を戻すと、その光が特定の場所から、頭の上の蛍光灯からやって来るのだと確信できた。その1秒後、光はもはや単なる光ではなく、目の前ではっきりとした明るい形をを取りはじめた。まわりにあるのは壁だろう。頭の上から降り注ぐ光とは別の光だから、きっとそうだ。どうして光が違うかは考えるまでもなかった。それは色が違うからだ。そう、色だ! 幼いころに親しんでいた、色というものだ! いま、色のスイッチが押されたのだ。

 

「ものが見える」とは、視覚で受け取った像を脳がどう解釈しているかということなのだろう。
この世に生まれてきてすぐの赤ちゃんが見ているのは、まばゆいひかりなのかもしれない。

赤ちゃんが澄んだ瞳であたりを見まわしている姿を見ていると
ひかりを見ていると言われても、納得である。
私とは確実に違うものを見ていると思う。
後天的に得たもの(あるいは失ったもの)と、もとから持って生まれてきたなにかについて考える。

このひかりのきらめきは、コトバの源泉であると思う。

 

 

池田さんの「暮らしの哲学」から引用する。

「言葉の力」
水がなければ魚は死ぬ。水の外に出ると魚は生きてはいられないんですよ。我々にとって言葉とはそういう存在、それがなければ生きてゆかれないもの、したがってそれは「生命」そのものなのですが、人はそうとは思っていない。生命と言うのは、この物理的生命のことだ世ばかり思っているから、その物理的生命を維持するための「現実」にとっては、言葉なんてのは「しょせん」言葉にすぎないと、そう甘く見ているわけですよ。

しかし、それならたとえば、その物理的生命、それが明日失われることが確実となったと、こう想像してみてください。明日、私は、確実に死ぬ。こう分かったとき、あなたはどうしますか。

まずはとにかく八方手を尽くして、何とか生き延びる手立てを探すでしょう。生き延びようと試みるでしょう。しかし、それは不可能だと、いかなる手立てももはやないと分かったら、どうしますか。

あなたは、必ず、「言葉」を求めるはずです。生死すなわち人生の真実を語る言葉、正しい考えを語る正しい言葉を、必ず求めるはずなのです。

そうしてそれを古今の哲学書、宗教書、聖書や経典の中に探し出そうとするでしょう。苦難や危機に際して人が本当に必要とするものは、必ず言葉であって、金や物ではあり得ない。明日死ぬのか、気の毒だから一億円あげよう。これでその人は救われますかね。

だから、人を救うことが出来るのは言葉であって、その意味で言葉こそが命なのだと、わたしは言うわけです。そんなのは極端な話であって、普段の日常ではやはり生きるのが先決なのだと、なお人は言うかもしれません。

しかし、我々の日常とは、よく考えてみると、明日死ぬ今日の生、その連続以外の何ものでもない。なのにどうして人は、言葉を求めずにお金を求めるのか。

世の中が息苦しくなっているのだって、言葉が汚れ、汚れた水の中で生きられなくなっているからにほかならないのですよ。

 

それでも、まだ「しょせんは言葉だ」という人はいるだろう。
言葉がなくたって生きていける、と。

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」

(新約聖書 口語訳 マタイによる福音書4章1節-4節)

 

 

死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。
宗教でもなくて、言葉である。(あたりまえなことばかり/池田晶子)

 

 

 

上野公園で見た銀杏。
きらきらだった。

コトバを感じる瞬間。

 

このひかりに、どのような言葉をのせていくのか。

辞書には書かれていない、言葉の根源的な意味を
追い求めてゆくことを「哲学」というのだと
私は考えている。