からだのふしぎ

見た目ではわからない

Pocket
このエントリーを Google ブックマーク に追加

金曜日は荻窪の本屋Titleで詩人の谷川俊太郎さん
土曜日は渋谷WWWでディジュリドゥ奏者のGOMAさん
日曜日は六本木のEX THEATERでアン・サリーさんと畠山美由紀さん。
憧れの会いたい人に連日会い続ける贅沢な週末だった。

(美由紀さんのカバーは、素晴らしいのだ…)

 

 

畠山さんとアンさんのライブの後
誘ってくれた友人とワインを飲みにいった。
ワインを飲みながら話した中で、印象的な話があったので記しておく。

 

友人の父親は、現在70代後半。
病気がちで、これまで何度か肉体が危険な状態になったという。

そして、病気でいかに辛かったかを、ずっと憂い続けているという。
友人は父に対して、助けられ、いかされたいのちを大切にしてほしい、
けれどもいかされていることに感謝が足りず、残念な人生だと思うと言う。

その話を聞いて私が感じたのは
意識の持ち方で病気になる、ならないという選択はできるのかもしれないが
その病気によって死ぬ、死なないは、
人の意識をこえたところにあるのだなということ。

 

友人の父は、たしかに気持ちの持ちようで
憂いのない、しあわせを感じられる人生になるのかもしれない。
けれども、病気であったことを憂い嘆きながらも、いのち拾いを何度もしている。
生かされているということに表向きの感謝が見られずとも、生きられている。
明るくすごさずとも、しあわせなど感じずとも、死なずに生きられている。

 

先日書いた、生きようと思ったのだ   という記事の中で
この記事をシェアした。

http://president.jp/articles/-/18207

 

「自分の人生を生きていないとき」人は病気になる
というが、病気になる、ならないを変えられても
その病によって死ぬ、死なないは、それだけで変えられることではないのかもしれない。

意識の持ち方、食事、医療などによって、確かに肉体の状態は変わる。
けれども、それらを超えたなにかによって、この世での生はあるようだ。

生かされていることに感謝などと特段言わなくても、生きられるもんなんだ。
(生きられるが、その生をどう生きるのだろうか。
この肉体で生きる時間は有限だ。
考えないで死ぬなど勿体無いと私は思っている。)

意識を変えたり、食事を変えたり、医療を受けたりで
病は癒えるかもしれないが
おそらく、いのちまでもがコントロールされたわけではない。
いのちは、人がなんとかできることではないんだろう。
だって、この世に生まれ出てきたことだって
この意識で為していないのだから。

 

例えば、自死で肉体から抜け出たいのちは
実は生を全うなどできていないんじゃないかと思う。
とは言いながら、寿命の自死(一見自死というか)もあるとも思うのだ。

生死というが、人間の目で判断できることなど
おおよそ見かけのものばかり。
しあわせだって、そうだ。
目で見てわかるものなど、ほとんどないんじゃないだろうか。

 

 

とりとめなく思いつくことを書いた。
まとまりなどないが、とりいそぎ。
今思うことを。