ことば

生きようと思ったのだ

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今回の治療は、病院側では抗がん剤がよく効いたという認識だと思うが
私自身はそれだけではないと思っている。

ケトン食という食事療法あってこそ抗がん剤もおどろくほどの効果があったと思うし、
(腹膜播種が消えていたのだもの…)
抗がん剤の副作用はあったが回復もはやかった。
さらに「意識」をどう持ってゆくのかを考えることはとても大きかった。
これで絶対治すと思っていた。

 

 

がんだとわかってしばらくたった時に、こんな記事を見た。

http://president.jp/articles/-/18207

(記事中にでてくる医師は小林麻央さんが通ったクリニックの院長であり
別件で逮捕されてしまったけれど、そのこととは切り離してみたい)

 

生きたいように生きているようにみられてきたし
食事も、ちゃんと摂っているようにみられていた。
(ベジタリアン?と聞かれることも多かったが、ベジタリアンになったことは一度もない)
私はそういうイメージで見られていたんだな
そして、私も人から期待されるイメージ通りに生きているつもりだったんだな
ということもあわせてよくわかった。

まわりの人が持っているイメージの私もいるが
まるで違う私もいる。
私の人格はひとつじゃない。
きっちりやる私もいるけれど
ものすごくだらしない私もいる。

なので他人のこともそう見ている。
人は多層、多重だ。

 

料理をするのは好きで、人を招いてふるまう
ということもしていたけれど、
誰かに喜んでもらえるのがうれしくてということが主体で
自分のために動いてなかった。
もう少し細かく見ていくと、人が喜んでくれることがうれしい私がいるので
たしかに私のためではあったのだけれど、
私のためだけということにはなっていなかった。
人から喜ばれることが喜びになっていると
自分のことがおろそかになっている、
まぁ、医療従事者、介護者、セラピストなどなど
ケアする側にいる人によく見られることだ。

人から褒められる、喜ばれるという前提ではなく
それは美しいと感じる主体でありつづけよう。

 

 

 

もう20年ぐらい前、座骨神経痛になってつらかったことがあった。
2回あったのだけれど、どちらも仕事がいやでいやでたまらなかった時期だ。
1度目にはわからなかったが、2度目でそれがよくわかった。
いやだいやだと思っていると、からだにくるのだということが。

 

なので、がんになってすぐに思い当たることがあった。
いやだいやだと思ってきたいくつかのこと。
いやだと感じているのに、それを言葉にできなかった。
多重である私のうちのひとりがずっともやもやしたままだった。

 

伊藤詩織さんをはじめ、#MeToo(ハッシュタグミートゥー)で声をあげた人たちのことばには
私自身も「なかったことにしていた」ことが掘り起こされて、しばらくつらかった。
なかったことにしていたけれど、記憶からは消えてなかった。

なかったものにしたことで、私の気持ちも凍結したままだったが
今こうして、まるで氷河の中から出てきたミイラのようにあらわになって
「ああ、あれがいやだった、これがいやだった」と泣いた。

今の私が「いやだったね、つらかったね」と抱きしめて
つらい気持ちはずいぶんと落ち着いた。

 

具体的なことはここでは書かない。
「言えない」ことと「言わない」ことは別だ。
私が、それについてわかっていればいい。

 

 

その他に、この9ヶ月の間に、自分でも思っていなかった私をみた。
自分のひどさ、みにくさに気づいて愕然とした。

 

いろいろできるつもりでいたけれど
全然できてない、できない私をみた。
もうすこしいい人だと思いたかったけれど、まったくいい人じゃない。
そして、たいしたことはまるでできていないただの人だった。

すごい人をみると、私なんて全然で
生きている価値などないとも思うけれど
それは人と較べるからで、
ひどいところばかりじゃなくていいところもあるよと別の私がいう。
そして、誰かと較べなければ
生きるということをしている私はすごいと思う。

生きているというだけで、すごいことをしていると心底思える。

まずは、「ここに、どうしてだか、いる」ということを思い出す。
それは決して私のこの意識で為したことではない。
なんでかわからないが、ここにいて
そして「生きたい」と思った。
生きたいと思っただけで生きられるわけではなくて
なにものかに生かしてもらっている。

最近、「玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ」
というタイトルの歌集を見た。
ああ、本当にそうだ、と思う。

 

 

それでも時々、またふっと嫌な気持ちが沸き起こることがある。
そんな時は、じっと考え続けずに
石神井公園を歩いたり、好きなものをつくったり、そうじをする。
意識を露悪な方へ預けずに、とにかくからだから動くようにする。

 

 

 

抗がん剤とケトン食、そして意識を変えること。
全部が複合的に、私には効いた。
抗がん剤の副作用は、からだの栄養状態によって変わることもからだで知った。

私は人には「抗がん剤はやめておいたほうがいい」と絶対言わない。
生きたければ、できることはなんでもして、使えることはなんでも使えと言う。
ひとつの方法じゃないほうがむしろいい。

 

 

 

 

眼鏡を新調した。
夏にも丸い眼鏡に変えて、店で試した時はいいと思ったのだけれど、
実際かけてみるとなんだかいまひとつだった。
輪郭がぼやける感じがしていた。

がんになって、化粧をちゃんとするようになった。眉毛やまつ毛がなくなって、もともと平たい顔がさらにぼんやりするのがいやだったし、なにより病人になりたくなかった。アイシャドーなんて何年も使ってなかったけれど、いろいろ試している。

ウィッグも、まずウィッグだとバレないし、自分から言って驚かすのが楽しい。ウィッグだと知らない人に「そんな髪型、似合う人そうそういない」と言われたが、おもしろいことに、スパイラルもアフロも案外みんな似合うのだ。(ウィッグを試しにかぶってもらった人たちが、見事にみんな似合っていた)

 

これから年をとってゆくにつれ、地味になるのではなくもっともっと色を纏おうと思う。

 

 

 

学会の懇親会で、修了生代表として話をさせてもらった時に
「がんになって、痩せてきれいになったし」
と言ったら、笑いが起こった。
大真面目で言ったのにー。