ことば

うつくしいということ

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グリーフケア講座へ通っていた時に知り合った友人たちと、
「14歳からの哲学/池田晶子著」を題材に、対話の会を月に一度続けている。
(2年前からばあちゃんちで続けている会もあるが、こちらは杉並区の友人宅で開催)

今回は「言葉」について。
「所詮は言葉、現実じゃないよ、という言い方をする大人を、決して信用しちゃいけません」
という痛烈なメッセージが残されている章。

言葉とはなんだろうか。

ただの紙を価値あるものとして、あたりまえのように使っているお金もそうだけれど
言葉もいつのまにか獲得して、あたりまえのように使っている。

けれども、表面にある言葉とその奥というか、目に見えないもとにあるそのコトバの意味
それを人はどうして知っているのだろうか。

たとえば、「うつくしい」ということ。
うつくしさの意味なんて教えてもらっていないのに、そしてうつくしいという言葉を知らずとも
こどももきっと赤ちゃんも、うつくしさを感じることはできているのではないだろうか。
空を見上げたこどもたちが、あっけにとられている様をみると
何かを感じているのだろうということはわかる。

うつくしいという言葉を発する以前に、
なにか荘厳な気持ちであったり、畏怖のようなものであったりというような
うつくしいという言葉の先には、本当はその言葉だけでは言い切れないものが無数にある。
それを言い表したくて、哲学があったり、詩があったり、絵があったり、
音楽があったりするのではないだろうか、と私は考えている。
きっと数学も理科も、そうなんだろう。
研究者たちは、本来自然のうつくしさに魅了されてきたんじゃないかと思う。
そして宗教は、これを神や仏といってるんだと私は思っている。

その先というか、そのもとというか、そこにあるものはなんなのだろう。

例えば、海外の人と表層にある言葉が通じなくても、
うちふるえる響きは通底しているんじゃないだろうか。
それをそれぞれの国の言葉で言ったとしても、「ああ、うちふるえる響きを感じている」、
そのことは共有できるんじゃないかと思う。

若松英輔さんの著作から、池田晶子さんを知り
そしてまた井筒俊彦さんという人の存在を知った。

若松さんの「悲しみの秘義」という本に
井筒さんの一節が引用されている。

人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が
声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。
この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは
確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、
それが人間の耳には聞えない
「言語哲学としての真言」

若松さんは、井筒さんのことをこう書いている。

哲学者の井筒俊彦(1914-1993)は晩年、「言葉」とだけでなく
「コトバ」と記すようになった。
コトバと書くことによって彼は、文字の彼方に息づいている豊穣な意味のうごめきを
浮かび上がらせようとした。
井筒が考えるコトバには無数の姿がある。
画家にとっては色と線が、音楽家には旋律が、
彫刻家には形が、宗教者には沈黙がもっとも雄弁なコトバになる。
苦しむ友人のそばで黙って寄り添う、こうした沈黙の行為もまたコトバである。

私も、最近は、言葉とコトバと書きわけるようになった。

この章について話す時には、ヘレン・ケラーとサリバン先生の話が出る。
ことばのない世界にいた時、ヘレンは野獣となっていた。
これは能楽師の安田さんから聞いたことだけれど、
彼女は水という言葉を体得してから「後悔と悲しみの感情を知った」と述懐しているそうだ。

言葉を得るまでは、なんなのかがまるでわからなくて暴れていたんじゃないだろうか。
もどかしさとともに。
あふれでる先がない溶岩のような感じだったのじゃないかと想像する。

この話を初めて聞いた時は、ヘレンは知らなくてもよいことを知ったのではないかと思った。
けれども、今は、私がこの世に生まれてきて、
この世で起こることを味わうためには言葉が必要だと思っている。
自分の人生の物語を紡ぐためには、言葉が欠かせない。
ヘレンのエピソードから、今自分に起こっていることを解するためには言葉が必要なのだということを思う。
そして、後悔も悲しみも、考えるためには必要な感情だと今は思う。

「世の中には正しいことなんてないのさ」って、
ちょっとワルぶるようなことを言う人が言うよね。
でも、そう言う人だって、そう言う限り、「正しい」というコトバ、
その意味はちゃんと知っている。
「正しい」という言葉が意味する「正しさそのもの」
というものがあるということを、ちゃんと知ってるんだ。
でも、なぜ知っているんだろう。
不思議なのはここから先だ。
(14歳からの哲学/P35)

「しょせんは言葉、現実じゃないよ」という言い方をする大人を、
決して信用しちゃいけません。
そういう人は、言葉よりも先に現実というものがある、
そして、現実とは目に見えるもののことである、とただ思い込んで、
言葉こそが現実を作っているという本当のことを知らない人です。
君にも、もうわかるはずだ。
目に見えるものは、目に見えない意味がなければなく、
目に見えないこともまた、目に見えない意味がなければない。
「犬」という言葉がなければ、犬はいないし、
「美しい」という言葉がなければ、美しいものなんかない。
それなら、言葉がなければ、どうして現実なんかあるものだろうか。
だからこそ、言葉を大切にするということが、自分を大事にするということなんだ。
(14歳からの哲学/P36)

再び、「うつくしい」という言葉に戻る。

うつくしいと感じる時、からだの微細な器官がふるふると振動しているのを私は感じる。
うつくしいは「思う」じゃない。
うつくしいと「思う」なんていうことにはならない。
うつくしいと「感じる」としか言えない。

冬の語源は「ふゆ、増ゆ」という説がある。
たま(たましい)をふるわせて、チカラを蓄える季節。
ふるえて、ふるわせて、いきるチカラを得ている。
神事で鈴をふるのも、鈴をふるたびにその音は細かい粒子として
いのちに響かせているのかもしれない。
オト、音。コトバ。
コトバも響くものなんだろう。

いのちの「い」は、息、息吹、生きる。
「ち」は血であり、霊であり、地であり、力。

いのち、とは私が生きているチカラ、そのものだろう。

私をふるわせて、生きるチカラを得ている。

細胞を構成する器官が微振動して気が生ずると、気功をする時も感じている。
気も、私を生かすチカラだ。

私をうちふるわせるうつくしさにまだまだ出会い続けたい。


病室からは、見る空がいつもいつもきれいで
それが私にとってはこの病院でよかったと思うところ。