震災の後はしばらく何もする気になれなかった。
漫然とやるかたなしといった気持ちで日々を過ごしていたが
ある日、お題を与えられて、小説を一冊読まなければならなくなった。
遠藤周作の「沈黙」を選んだ。

私は遠藤さんの小説が好きだ。
宗教とは何か
信仰とは何か
常日頃、よく考えることだが
遠藤さんのキリスト教に対する想いは
私の考える「信仰とは」にリンクする。

「神も仏もない」。
未曾有の大災害を前に、多くの人が思ったことだろう。


遠藤さんの「沈黙」の中に、こんな一文がある。

長崎奉行所に捕らえられた司祭ロドリゴは、
棄教すれば拷問を受けている信者を
助けてやると持ちかけられ、踏み絵に足を掛けた。
他人の苦しみのため、キリストを裏切ることを選んだ。

「踏むがいい。お前の足の痛さを
この私が一番知っている。弱者も強者もない。
強い者が弱い者より苦しまなかったと誰が断言できようか。
キリストを裏切ったユダの心も痛んだのやもしれぬ。
私は沈黙していたのではない。
一緒に苦しんでいたのだ」

私も、喘ぐ人たちを前に
なにもできなかった。
なにも失っていないのに、
苦しむだけで、なにもできなかった。
「沈黙」を読んで、なお一層
重苦しい気持ちを味わった。


私たちは救いを求めるが
おそらく神は上からあらわれて
私たちを救い上げる存在ではない。

最近読んだ「古代から来た未来人 折口信夫/ 中沢新一著」の中で
「神々の構造のすき間を埋め尽くしながら
そこを霧のように浸し、流動している、別種の霊性」
ということばにであった。

神は中心であったり、頂点であったりしない。
私たちの間を自由に流れつづけているものだ。
それらは私たちの間に、そしてすぐそばにあるものだ。

与える、受けとる
の関係ではなく
もはやそれらとわたしたちは、
浸透膜のようなものを経て循環しあっている
と私は考える。

その循環しあっているエネルギーに
神という名がついている。
私たちはこのからだを浸透膜に
そのエネルギーと交歓しながら生きている。
私は「神」という存在をそう捉えている。
そして、もはやなにをもって「私」というのかも
わからない。
膜の内も外も一体だからだ。


見ることも、聴くことも
味わうことも、嗅ぐことも
触れることも
すべて交歓だ。

そして、それらを官能と言おうと思っている。
官能とは「感じること」。
神との交歓。

もうすぐ立春。
春の始まりの日。
寒さが続くが、なんだかほのりと
あたたかくやわらかいものをカラダの中に感じている。
境界を越えて、もっと自由に泳いでいいんだよ、と。