ご挨拶がわり

渡りに船 またあたらしいゲームの始まり

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夏にあった疑いが疑いではなくなり、4月から治療を受けている。

診断名は、子宮体がん、腹膜播種。

これまでなまぬるく生きてきた私が、
崖っぷちのぎりぎりを歩くために、ようやく目を見開いたといったところ。

最近読んだ星占い。
水瓶座のわたくし。
〇〇座の取り扱い説明書〜水瓶座編〜

・他の人と一線を画す変わった好奇心ポイント
・変態を超えたいっそ清々しい探求者

ここが、言い得て妙。

がんを通して私は
「生きているとはどういうことだろう?」ということを、
他の人からすれば、なんでそんなところから?
といぶかしがるような場所から見ている。

アホちゃう?
そう、アホですわ。

本製品の基盤には”永遠の尾崎豊チップ”が使用されております。
安定した反骨精神が基本機能として内蔵されておりますので、
本製品の思考を強制的に止める、干渉する等の行為は
バグを招く恐れが御座いますのでご遠慮ください。

う、うーん。まったく。
「Don’t Stop me now」だ。

思考することをどうかとめないで。
そして、思慮なしの断定をする人には、真剣斬りでいく。

昨日は、読書と対話の会だった。
「心はどこにある」の章を読む日だったが、
「精神」や「魂」といったことばが、話の中によくでてきた。
精神というと、うかぶ一文がある。

井筒俊彦氏「意識と本質ー井筒俊彦著作集」によせて、池田晶子さんが書かれた文章。

「哲学が扱うものは意識であり、そして人が自分が意識であることを認めるならば
哲学は本来的に、万人のものだ。
テキストが先ではない。まず自分の意識の仕方を体得しておくことだ」。

「なるほど、わかった、で、それがどうした、となお人は言うか。
どうもしやしないのだ、世界がかく在り、
私たちがかく暮らしているという事実に、全然変わりはないのだ。
変わりうる余地があるものといえば、ただひとつ、
そういう君の、その生き方だ」。

「信仰を持たない私は、こんなこの世に在ってしまったそのことだけで、潰えかかる夜がある。
神はなぜ、と私は問いたい、しかし答えがあるくらいなら誰が問いなどするだろう。
魂の高貴さ、人はなぜこの魅惑的な言葉の響きを忘れることさえできるのか。
愚劣だ、私はない神を見上げる。
するとそこにプラトン、星のように高く光るあれら人類の哲学者たち。
そして睥睨するヘーゲルなど。

精神を、さらにさらに高く精神性を掲げよ。
やがてそれは滔々と立ち上がる光の柱、
高貴な魂たちの勝利と祝祭、
その雄々しい知性が断固として君臨するのを、私は見る。
神であってもなくてもどっちでもいい。
しかしそれは確かなことだ、なぜならそこには歓びの感情—。

私たちの知性は、その高潔さによって、あんなにも遠く遠くへ行けるものであることを、
私は井筒氏に教わったような気がするのです。
信仰なき身として、これ以上の救いはなかったと、深く感謝いたします」。

池田さんは腎臓がんで10年前に亡くなった。
闘病に関する記述は一切残していないそうだ。
病院に行ったというようなことが書いてあった記憶はあるが、
確かに、具体的な病気のことは読んでいない。
個人的なことはどうでもいいのだそうだ。
なので、とあるがん患者の闘病記については、「気持ち悪い」と吐き捨てるように書いていた。
これに関しては相当な批判があったようだし、
池田さんらしいけれど私もそれは言い過ぎだったなと感じた。
インターネットも毛嫌いしておられたので、
ネットでブログを書くなど、そしてごく個人的なことにすぎない闘病について
書くなどありえないらしい。

私自身は、この名前をもらって生きているごく個人的なひとりとして
肉体の死を見据えるという、崖っぷちを歩くような日々のなかで
感じたこと、考えたことを綴っていきたいと思っている。
いつ死ぬかわからないのは、病気でなくとも同じはずであるのだが。

池田さんのコトバからは
肉体病んでも精神は病まず
ということを教わった。
からだである私と、考える視点、その意識としての私は同じではない。
それをいま、味わっている。

グリーフケアでの学びを経て、池田晶子さんの残したコトバ、「読書と対話の会」での対話。
知りたいと思いつづけてきたことが、このようなかたちで贈られてくるとは。
すべて、万全の準備が整った。
私のこれまでの人生を言い表すことばは「渡りに船」である。
また、近づいてきてくれた船に乗るだけ。
あらたな冒険はなかなかにヘビーだが、人生というゲームを別の視点でみてゆこうと思う。
時々、今どんなことしてるのか、のぞいていただけるとさいわい。

髪の毛ほぼ抜けたので、ウィッグ。