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汝自身を知れ

古代ギリシャ

つまり、紀元前500年頃

ざっと2500年ぐらい前の

デルフォイ

 

デルフォイとは

各地にあるアポロンを祀る神殿の中で

最も大きな神殿のこと



​アポロンのお告げ=神託が聞けるので

ギリシャ各地の王はこぞって

デルフォイに信託を受けに行きました。

 


その神殿の入り口には

「汝自身を知れ」

とあるんですね。

ギリシャ文字で「汝自身を知れ」と書かれたローマ時代のモザイク

なぜ、自分を知る必要が?

それは、

自分自身が真に求めているもの

を理解しない限り、

何を得てもしあわせではないからです。

 

また、自分自身の弱さだったり、脆さ、

癖、好きなもの、嫌いなもの、

良い面も悪い面も

「こんなところあるな」

と理解していないと

望まぬことがあると、慌てたり、

動揺したり、ひたすら落ち込むばかり。

 

「どうして自分はこうなんだろう…」

こんな感情を抱えていない?







これらの感情は、実はあなたにとって

大切なものを知らせてくれる

「自分からの声」なんです。

 

 

「私」のなかには

「こんな自分」「あんな自分」

というように
さまざまな自分がいます。

 

感情とは、

その自分たちの声なんです。




「気づいてほしい」という声です。



​​

そんな、声を上げている自分

の存在を知らないでいるから

 

必要以上に心を掻き乱され

誰かを恨んだり、妬んだり

自信をなくしてしまうわけです。

 

仕事にしても

人間関係にしても


「こういうことは気が進まない」

とわかっていれば

避けることができたり

準備できたりするのに

 

もらえるお金が多いとか

誰かに勧められたから

といったことだけで

何の対策もなしに選んでしまうと

神経を消耗し、

あの人が言ったからと

勧めてくれた人を恨んだり

できない自分に自信をなくしたり

ということになります。

 

 

人は、真に自分の欲するもの

に向かわない限り

心は満たされないし

自分を正しく理解しなければ

絶えず人に翻弄されて消耗するばかり。

「正しい」ということの意味​

「正しい」の意味は

自分の感覚に正直である

ということでしかありません。​

 

第三者のいう「正しい」は

その人にとっての

正しさでしかありません。

 

おそらく、多くの人は

「自分を知る」ことよりも

他者にばかり目が向き​

うらやんだり、批判に明け暮れています。

 

自分への批判もそうです。

真に自分を理解している人は

自分自身に対して

あからさまな批判も卑下もしません。​

 

自分を公平な目で見て、身の程を知り

至れていないことに

一人静かに在り方を正す​

 

そして、どうありたいかを

ひたすら自問自答して、

研鑽を積んでいくこと

 

それが徳というものなのだろう

と私は思います。

 

そして知恵(いや、智慧ですね)

となるものなのでしょう。

 

こどもの頃に遊んだ

「人生ゲーム」のように

魂の旅路は、「私」という車

に乗ったようなもの。

 

車の乗り換えはできません。

乗り換えたら、

この意識の私ではなくなります。

 

快適なドライブのために

乗った車の性能、癖を知り

つきあっていくこと。

 

そして、この車に乗って

そこここに散らばる「自分」

を探しに行くわけです。

もちろん、ハンドルを握るのは

「私」です。

 

「自分のことは一番わからない」

と言うならば

何をわかっているというのか

ということにも気づきたいものです。