ブログ

インドと私と意識の変容

宗教人類学の講義を受けている。

大学の教室で、20歳になるかならないかという若者達とともに
自分が学生の頃にはまず座らなかった一番前の席で
先生の話を聴いている。

 

授業は昨日で5回目。
初回と先週は用があったので、私は3回目の受講。

 

文化とはなにかという話から始まり、
(膨大な歴史から集約して話してくださっているということだけで、すごい)
昨日は呪術の話。

 

 

15年ぐらい前、インドへ行った。
ムンバイから内陸へ車で走って、シルディ村。

 

日本でサイババといえば、でかいアフロ頭をしたサイババが有名だけれど
そのアフロ・サイババであるサティヤ・ババさんは
シルディ・サイババの生まれ変わりなのだと言っている。

その元祖サイババ、シルディさんが祀られている村へと行くことになったのだった。

 

シルディ村は、シルディさんが祀られている寺院があるだけの村なのだが
ここは信奉者にとって聖地であり、
ちょうど日本でも寺の参道は茶店が並んで賑やかであるように
お祭り的色合いの濃い、ハレの地であった。
(とはいえ、日本人の目からすると、インドはどこもハレの地に見えるんだろう)

 

ああ、そうそうこの方。
シルディはーん。

 

シルディさんは亡くなってなおも、
というか肉体を失くしたからこそ奇跡を起こし続けているらしく
シルディさんにすくわれたという人がうじゃうじゃとこの地へお礼参りに訪れる。

寺院にも通わせていただき、インドの人々とともに祈りをささげられたことは貴重だった。
日々は祈りと共にあることが当然、あたりまえすぎて疑わない人々がいる。
私にとってはそういう人々がいるということを知る初めての経験だった。
日本でみえる宗教の様相とはまるで違う。
宗教というか、宗教じゃない。
祈りを日常から切り離さないこと。
いろいろ衝撃だった。

 

写真は残念ながら残っていない。
京都の家から引っ越すときに捨てたような気がする。

 

レイキを教わっている時に、その先生から誘われたのだったが
その先生の師匠という人が、完全にマスターになりきっている人で
その旅はおそろしい修行の旅だった。
映像として脳内に残っているが、言葉にしたくないほどの記憶だ。

と書いて、いろいろあらためて思い出す。

インド人に手のひらを見られた。
生年月日をこちらが言わずとも言い当て私について語り出した。
的確だった(ように思えた)。
君はこの神様を讃えるのがいいといわれ、その神ドゥルガーの像を買いそうになった。
10万円以上するものなのに、欲しいですと言ってしまったよね。

結局、帰国後すったもんだの末、像は買わずにすんだのだけれど。

ドゥルガーはーん。

 

 

客観的にみると「それ、おかしいでしょ」ってことを
たやすくしてしまうことがあるよね、人って。

でも、「おかしい」ってなんだろうね。

そんなにおかしいことだったかな。

私がその像に価値を見いだしつづけていたら、
おかしいこととは思わずにいるんだろうに。

ドゥルガーに護られていると思えたら、
その像は今でも心強いパートナーになっていたことだろう。

 

でも、今の私にはそんな像は必要ない。

 

 

宗教人類学、もしくは文化人類学とは、
各地にある祈りや呪い(呪と祝は同根だ)を
「おかしいよね」と区別、差別したり、「迷信だ」と遠ざけることなく
普遍的な思考としてとらえて、
なぜ社会にそういうことがあるのかとその意義をとらえるもの。

その社会のなかでどういう知識が正しいと承認されているか、
ということを客観的に並べてみてゆく。

混沌としていた脳内が、言葉で整理されていく。

 

 

本当は、客観的に見ているんじゃなくて
その世界に疑問を挟むことなく一体となれたら
それはしあわせなんじゃないかなぁと思ったりする。

私の場合、いつもどこか冷めた目で見てしまうところがあるので
もっとトランスしたいというのが、常に願望としてある。

この願望というか乖離した自我は、踊りに行ったり、大声を出したり
もっとからだを動かすということでおとなしくなる。
(トランスしたら願望さえ忘れるのだ。今の私にはトランスが足りない。)

 

 

「霊能者といわれるような人がなにか見えたり、感じたりするのと
たとえば幻聴幻覚があり精神的に追い詰められ統合失調症と診断されるような人と
どこがどう違うのだろう」ということが私の疑問としてよく浮かぶ。
先日、神事をとりしきっている友人ともそのことについて話したのだけれど
「私自身も、『これ本当か』といつもどこか疑っている。
疑えるというところが違うんじゃないかな」と言っていた。

 

その人の意識がどう捉えているか、ということだけ。
そうであれば、そうなる。

「我思うゆえに我あり」ということが、ここでも浮かび上がる。

「私」がそうであるといえば、そうなるのだ。

 

 

意識の変容でいかようにもなる、
それが人間である所以だと思う。
おもしろいし、おそろしい。

(今話題のことで言えば、日大アメフト部のMくんは、
人前であれだけ冷静に話せる人でありながら、コーチや監督に追い詰められて
相手に危害を加えることまでしてしまったのだ…。
人の意識変容のおそろしさをまざまざと思うよ。
自分のことなんてわからないもんだ。
けれども、そこで立ち止まって、「どういうことだ?」と考えることを
「精神」というんだと思うんだよね。
「疑ってみる」ということも、精神にかかわることなのだろうな…ブツブツ)

 

うちに残るインド記念品はこれだけ。

なんとなくネットでシルディを検索してみると
東京にシルディ寺院があるんだ…!


ABOUT ME
知詠
近畿大学農学部食品栄養学科卒業。研究テーマは「カビ」。卒業後は、食品会社で研究職。乳製品もどきを分析したり開発したりで6年半。1995年の阪神淡路大震災をきっかけに身一つでできることをしようとマッサージをはじめる。2001年アメリカ、エサレン研究所にてトレーニングを受け、ボディワークをはじめる。同じ頃にはじめた気功で「自然が先生」という教えに出会い、ひとのからだとこころのふしぎについて考えつづけている。2017年、子宮体癌4b診断。標準治療をはじめるのと同時に食事を見直し、あたらしい細胞をつくっていくためには食が土台だと体感。あらためて、「生きているとはどういうことだろう」をテーマにかんがえうごく場「空-くう-」を主宰。