ケアの質感

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2014年から2年間、上智大学のグリーフケア講座を受講した。

グリーフケア研究所 | 社会人の方 | 上智大学 Sophia University

受講に際して試験も面接もあり、
授業では成績もつけられレポート提出もあった。
一定の基準に満たないと修了できない。
大学生ではないものの、学生の緊張感を味わう日々だった。

スピリチュアルケア師という仰々しい名前の資格もいただいたが
この資格をいただいたからといって
なにかができるようになった手応えはない。

ただ、2年間通えてよかったという実感は続いている。
通っている間は、なかなか大変なこともあったし
グリーフケアを学びに来て、なぜまた別のグリーフ(悲しみ、嘆き)を
得なければならないのかと落ち込むことも多々あった。

けれども修了して、時間が経った今は
あのタイミングで学びにいけたこと、
そして出会えた人たちがいる
ということは、なににも代えがたくありがたいことだと感じる。

講座の中で、この人がいたから
私はまたあらためて自分をみることができた、
そう思わせてくださる人がいる。

その人の講演が、8月4日、台東区の厳念寺でおこなわれた。

厳念寺 特別公開講座 第一回「ケアの質感」講師:瀬良信勝先生

先生は、千葉県鴨川にある有名な大病院で
チャプレンをされている。

チャプレンとは
教会や寺院に属さずに施設や組織で働く聖職者のことをさす。

聖職者として、たとえば病院などの施設に所属して
病院ならば患者さんやご家族、そしてそこで働くスタッフの話を聴く。
話を聴くことで、その人がその人自身であるように援助をする。

援助というと、なにかしら具体的な助けをイメージしやすく
すこし違和を感じる。
日本語で表しづらい。

英語だとエンパワーということばがある。

empower

【他動】

  1. ~に権利を与える、権限を持たせる
    ・Buyer is not empowered to represent Seller in legal transactions. : 買い手は法的取引において売り手を代表する権限はないものとする。◆契約書
  2. ~に(…できる)ようにする、~に力を与える
  3. (人)に自信を持たせる、(人)を力づける

辞書ではこのように表記される。
これだと、「援助」という言葉のもつ意味と変わらない感じがする。

wikipediaにはこう書かれてある。

広義のエンパワメント(湧活)とは、人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させることと定義される。

勇気や希望を「与える」という言い方は、関係性として一方的であり
上から下へという階層も感じる。
与えるなど、おこがましい。

「与える」のではなく、その人自身が自分がもってうまれたものに気づく、
その力添えだと私は思う。

その人には、もともと力があるのだ。

こどもの頃、初めて買ってもらった二輪の自転車には
小さな補助のコマがついていた。
はやくそのコマなしに、二輪自転車が乗れるようになりたかった。
コマをとって、親が手を添えてくれた状態で練習をした。
こけて、怪我もした。

でも、気づいたら、いつのまにか
コマがなくても
添えられた手がなくても
自転車に乗れるようになっていた。

その、添えられたコマや手のようなものを
エンパワーというのだと思う。

「ある精肉店の話」というドキュメンタリー映画がある。

その映画の中で、牛を捌くシーンがある。
牛を気絶させて、皮を剥ぎ、肉を部位ごとに捌いていく、
そのシーンがとても鮮やかだった。

刃がよく研ぎ澄まされた上に
解体する人の腕がいいと、血まみれにならない。
そうして捌かれる牛は、それほど苦しまずにすむように見える。

映画を観終わった後に、「いい肉が食べたい」と思った。
牛を殺して、その肉を食べるなんて残酷だと思うどころか、
その身をいただくことをとてもありがたく思える映画だった。

講演にはグリーフケア講座修了生がたくさん参加していた。
終わった後、顔見知りのメンバーとすこし話した。

先生について話している時に、この映画のことを思い出した。

先生には、なんども力添えをいただいた。

グループワークで先生から問われた、そしていただいた言葉の数々。
向けられる言葉は刃のようだった。

その刃でもって、私は自分の骨と皮、肉を
丁寧に剥ぐ、削ぐことができた。
血はほとんど流れなかった。

講座の終了後、先生とも少しことばをかわすことができた。
本当はもっとお話ししたいことがあったなぁと
帰宅してから残念に思う。

一緒に写真も撮ってもらえばよかった。

授業の中で、グループワークがなんどもあった。
私は最後の授業の日に
「本当に話したいことは、話せなかった」と言って終わった。

がんの治療中は、
今ならば、みんなに聞いてもらいたいことがあるのになぁと思った。

実際は、この講座で出会えた友人のおかげで
私は治療中も、かなしみやくるしみをひとりで抱えることなくすごせた。

後になって、よかったと思うことばかりである。

スピリチュアルケア師を名乗って仕事をすることは
ないように思う。

けれども、先生曰く
「自己理解の深さが、そのまま他者へのケアの深さになる」ならば
人と相対するための胆力は、すこしはついたのではないかと思いたい。

しかしながら、他者と相対すればするほど
私にできることなどほとんどないと思うばかりである。

(それにしても、先生は見た目は細くて華奢なので、それだけの人の話を聴き続けることは大変なのではないかと思ったりしていたが、最後に趣味の自転車の話を聞いて納得した。先生、細いけれど筋肉と体力はあるのだなぁ。人にがっぷり向き合う仕事をする人は、精神的相撲になることも多々あり、体力必須だと最近とみに思うのだ。なので私も日々の筋トレを始めたのだ。すこしでも続けることが大事。)

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